2013年3月15日金曜日

筋肉少女帯『レティクル座妄想』

筋肉少女帯『レティクル座妄想』1994年


 筋肉少女帯9枚目のアルバム。
 世の中には、「一見するとそう思われていなくても、実際にはそうであるもの」が存在する。なにを言いたいかというと、この『レティクル座妄想』である。プログレッシブ・ロックというジャンルの定義がどのようなものであろうとも、およそプログレを好む者たちのあいだには、「プログレとは」という定義にかんする、おおまかな共通理解が存在するように思われる。もちろんそこには個人差があるわけで、そのために「あれはプログレだ、いやあれはプログレじゃない」といった議論がやかましく語られるというわけである。じゃあ、筋肉少女帯はプログレバンドか、というと、まぁ一般的には違うということになるだろう。しかし、この『レティクル座も妄想』は、きわめて「プログレ度」の高いアルバムなのである。

 大槻ケンヂ氏は、楽器が弾けない、らしい。また、彼の音楽原体験のひとつに、プログレがあったことは確かなようである(どうやらそれはEL&P『タルカス』と、ピンク・フロイド『おせっかい』だったようだ)。じゃあどうすれば良いか。Yesのような、超絶テクを駆使したプログレバンドはとても無理だ、それなら、(ピンク・フロイドの)ロジャー・ウォーターズのようなコンセプト主体のバンドならイケるんじゃないか、と思い立ったのが筋肉少女帯、ということである(筋肉少女帯そのものがプログレを目指しているわけではないだろうが)。
 そしてそのなかでも、オーケンの「プログレ趣味」が良く出ているアルバムのひとつが、この『レティクル座妄想』であると言える。なので、本アルバムは一般的にプログレ扱いされていないが、実際には、きわめてプログレ度の高いアルバムなのである。

 構成としては(オーケンのプログレ・アプローチはテクニカル方面じゃなくて構成なのだから、構成について語るのは的外れでないだろう)、「レティクル座」に向かう列車に、自殺者たちが乗り込んで出発するという枠が設定されている。その中で、ノゾミ、カナエ、タマエ、モモコといった名前が何度も復唱され、イメージを嫌が応にも重層化させて行く。謳われるモチーフも、学校生活に馴染めない学生といったものが多く、そこに、オーケン得意の、少女耽美趣味などが重ね塗りされてゆき、独特の世界を構築している。
 個々の楽曲は、独立の曲としても素晴らしいが、とりわけ「香菜、頭をよくしてあげよう」は個人的にお気に入りである。べつにシングル・カットされた曲というわけでもないのだが、この曲だけは、『レティクル座妄想』を通奏低音のように駆け抜ける「鬱」といった気質とは異なっている。
 いつか自分から去っていくであろう女の子(恋人?)に対する、なかば保護者のような慈愛の念に満ち溢れた歌なのである。但し、オーケンのエッセイなどを読む限りだと、彼は学生時代の「モテない期」と、バンドをしてからの「モテ期」のギャップが激しすぎて、そのため女性にたいして真剣な恋愛感情を抱くことが出来なくなってしまった、というようなことが伺える。そのため、この「香菜、頭をよくしてあげよう」に謳われているシチュエーションも、実は恋愛に対して一歩引いてしまっている男の、さびしい諦観にも似た感情が謳われているのかもしれない。(彼はこの「香菜、頭をよくしてあげよう」というフレーズが気に入ったらしく、後にエッセイのタイトルにも採用している)
 それ以外にも、「愛のためいき」に見られるオーケンの気持ち悪い裏声(時をかける少女からのカバー?観ていないので、よく分からず)、「ノゾミのなくならない世界」で表現されている、これまた独特な冷めた世界観(彼のエッセイによれば、これもまた昔の彼の追っかけからの告白を基にしているらしい)など、ある種病的な世界が展開される。
 そういった「病的な世界」がピークに達するのは、最終曲一曲手前、「レティクル座の花園」であろう。この曲において、途中の「さらば桃子」で飛び降り自殺をした桃子が、死にかけていることが明かされる。桃子は犬のポチや死んだおじいちゃんと出会う。その後ろのコーラスは、

モルヒネの麻酔の幻さ それでなきゃきっとうわ言
 他愛ない桃子の妄想さ ただでさえあの子嘘つき
と歌っている。でも、そこに桃子は「幻でも夢でもいいじゃない」と返答する。妄想でも良いじゃない、だって、現実よりも妄想の方が幸せなんだもの。これもある種の現状肯定なのだろうか。すくなくとも、アルバムはこの曲において、歪んだクライマックスを迎える。
 最終曲「飼い犬が手を噛むので」は、ボーナストラックのような感じだ。Sergent Pepper'sで言えば、'A Day in  the Life'のような位置付けか。ただ、ここでもオーケンの妄想ワールドは炸裂している。歌というよりも叫びに近いこの曲において、彼は、少年少女が犬人間ではなく、つまらない人間を狩る側の人間であることを証明するための審査員として、さまざまな人名を挙げる。そこには多種多様な人名が雑多に挙げられていくが(フランク・ザッパから、アリス・リデルまで)、それはまるでこのアルバムのカーテンコールで、スペシャルサンクスが述べられているかのようでもある。





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